蕎麦切り発祥の地は信州だった⁉
皆さまごきげんよう。
信州松本ぺんぎん堂安曇野支店ぺんぎん兎丸です。
毎日暖かい陽気が続きますね。
桜もあっという間に満開を迎えそうです。
でも今日は、桜ではなく、お蕎麦の話をひとつ。
皆さんは日本蕎麦はお好きですか?
兎丸は最近、年齢のせいか、ラーメンより蕎麦派になりつつあります。
先日行った信州新町の琅鶴梅園でも、近くの手打ちそば「おかめ」さんでお蕎麦を頂きました。美味しかったです。
子供の頃は温かいお蕎麦より冷たいお蕎麦の方が好きだったのですが、今は温かいお蕎麦の方が好きですね。
信州はそば処として有名ですが、三千メートル級の山々に囲まれ、昼夜の寒暖差が大きく、降雨量も少なく、火山灰を多く含む土地は痩せている。そんな気候風土に合っていたのが蕎麦だったのですよね。農業技術が現代のように発達していなかった時代では、稲作よりも蕎麦の栽培の方が適していたのです。
しかし、蕎麦が今のように切り蕎麦として食べられるようになったのは、比較的近年(と言っても豊臣秀吉の時代なのですが)なのですね。
※今のように細く麺状に切られた状態で食べられるようになった始まりの地は諸説あります。
ソバは、縄文・弥生の時代から食べられてきた穀類のひとつである。
ソバの実(玄ソバ)の殻を取り除いて、「剥き実・ソバ米」としての「粒食」であったり、団子や蕎麦掻きなどで食べる「粉食」としての時代が長かったが、やがて「麺食」としての食べ方が登場したのが「そば切り」である。
縄文時代から、身近な食材だった蕎麦は今のように細く切って食べていたわけではなかったようです。
子供の頃に蕎麦がきを食べたことがありますが、子供だったせいか、あまり美味しく感じませんでしたので、今のように切り蕎麦が食べられるようになって良かったです。
でも、そば粉が手に入ったら、食べてみようかな。そばがき。
切り蕎麦の歴史は、文献として残っているものが少なく、山梨県でも甲州発祥だと言われているようですが、長野県では、中山道六十九次の32番目の宿場町本山宿が発祥だと言われています。
彦根藩井伊家の家臣で、松尾芭蕉十哲の一人でもあった森川許六が芭蕉門下の文章を集めて宝永3年(1706)に編纂した俳文集「本朝文選」、後に改題した「風俗文選」の中で、「そば切りといふはもと信濃の国本山宿より出て 普く国々にもてはやされける」とした雲鈴という門人の説を紹介している。
松尾芭蕉の門下生
本山宿は現在の塩尻市にあります。
当時の宿場町の風情は薄れ、のどかな山里風景が広がっていますが、地元の人たちがこの歴史と家庭の味を伝承したいと、「そば切り発祥の地 本山そばの里」を運営しています。
兎丸も是非一度訪ねてみたいと思います。
最後になりますが、皆さんは、蕎麦湯を楽しまれたりしますか?
生そばを茹でたあとの、ゆで汁です。
蕎麦の香りを楽しむことが出来るので、蕎麦湯を提供して頂けるお店では必ずお願いして、出していただいています。
そば湯を飲む風習は信州から江戸に広まったと言われています。もともとそばはバランスのとれた栄養食。なかでもそば粉に含まれる植物性タンパク質はとても良質なことで知られます。しかしながら、何度もゆで釜でそばをゆでているうちに、溶けだした栄養素がゆで釜の湯にだんだんと濃縮されていきます。せっかくの栄養をムダにしないよう、生活の知恵として口にしたのがそもそもの始まり。このタンパク質は二日酔いに大変効果があり、またその他にもポリフェノールの一種であるルチン、またビタミン、ミネラルも多量に含まれています。
美味しいそば食の後は、そば湯で健康をたっぷり味わいましょう。
ただし、乾麺を茹でた後のゆで汁は蕎麦湯にはなりませんのでご注意を (^^)b