皆さまごきげんよう。
信州松本ぺんぎん堂安曇野支店ぺんぎん兎丸です。
週末にお花見を楽しんだ兎丸です。
毎年、上田城跡公園や小諸城址懐古園、諏訪の高島城、高遠城址公園などで桜の花を堪能しておりますが。
今年は新型コロナウイルスの影響で、余り遠出は出来ない状況なので松本城に行ってきました。
暖かい春を迎えた2021年。
いつもの年より1週間ほど早い開花でしたね。
余りにも暖かいので、既に散り始めの状態でしたが。
少し風が強く吹くと桜の花びらがひらひらと舞う。
そんな風情も美しいものですね。
ところで、日本には江戸時代までに建造された現存する天守が十二城あるわけですが、松本城は現存十二天守のうちの国宝に指定された五城のひとつなのです。
江戸時代までに建てられて、現在まで残っている12基の現存天守。このうち、姫路城(兵庫県)・彦根城(滋賀県)・松本城(長野県)・松江城(島根県)・犬山城(愛知県)の5基が国宝に指定されています。
松本盆地のほぼ真ん中、平地に築城されています。
元々、徳川家康の家臣だった石川数正・康長父子によって、現在の様な天守になったと言われています。
豊臣秀吉の時代には、築城ラッシュで全国に3000程のお城がありましたが、江戸時代に入ると、徳川幕府の「一国一城令」と「武家諸法度」により一部の例外を除いて、大名の居城となる1城以外の城の破却と城の新築工事の禁止が定められて、一気に170基ほどに減ってしまいます。
しかも、明治維新後新政府が、全国各地のお城なんかいらないよね~(廃城令)と競売にかけて失われてしまったりで結局十二城しか残らなかったのですが、全国各地で再建などもされていますから、各地のお城をめぐるのも楽しいかも知れません。
松本城も廃城令の憂き目にあい、競売にかけられてしまいますが、市川量造ら地元の有力者の尽力によって買いもどされて難を逃れました。
寄付金を集めたり、お城の中で博覧会を開いたりして松本城を廃城の危機から救ったのです。
しかし、折角買い戻した松本城ですが、明治時代にはこんなに傾いちゃっていたんですよね。
こーんなに傾いちゃったのは、一説によると貞享騒動(加助騒動、嘉助一揆)の首謀者・多田加助が磔刑に処せられる際に、天守を睨んで絶叫した怨念によるものだとか。
これが本当なら、加助おそろしい子!
じゃなくて(笑)
もともと、松本地方は地盤が軟弱なうえに基礎に使われていた木材が腐食したりで明治30年代頃より天守が大きく傾き、これを憂いた松本中学(旧制)校長の小林有也らにより、天主保存会が設立され、1903年(明治36年)より1913年(大正2年)まで「明治の大修理」が行われたと言うのが真相なんですけどね。
今では、こんなに立派になりました。
もともと、10万石にも満たない小藩だったので、天守は小さいです。
そりゃもう、名古屋城や姫路城、大阪城なんかからみたら、ちっさすぎて話にもならないかもしれないですけれどもね。
ところで松本城は、なぜ黒いのでしょう?
一説には、豊臣方の城は黒が基調。徳川方の城は白が基調と言われていますよね。
実際には事情が少し違うようですが。
日本には黒い天守と白い天守の2種類が存在することとなり、黒い天守は豊臣系、白い天守は徳川系と言われることもあります。たしかに、豊臣秀吉の大坂城は黒い天守でしたし、徳川家康の江戸城は白い天守でした。ただし、黒い天守には関ヶ原の戦い以前に築かれたものが多く、白い天守には関ヶ原の戦い後に築かれたものが多いことも考えなくてはなりません。豊臣系か徳川系かということではなく、時代の流れであったとみるべきではないでしょうか。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いでは、伏見城など焼失した城もあるため、耐火に適した漆喰が流行したものとも考えられます。
年に一回、黒漆を塗る努力も相まって、その美しさは天下一品だと思っています。
きっと、皆さまの地元にお城があるなら、わが城が一番だと自負するのと同じように。
松本城では、松本城御朱印を購入することもできます。
来城記念にいかがですか?
ぜひとも、お城好きの皆さま、一度国宝松本城にもおこしくださいませ。
兎丸拝