こんばんは、ぺんぎん茶々丸です。
本日は弘法山古墳から松本の古墳時代に想いを馳せてみます。
私は昔から、諏訪がちょっとうらやましかった。
諏訪には諏訪大社がある。
星糞峠がある。
黒曜石がある。
縄文時代から続く、土地と人の物語がある。
それに比べて、我が故郷・松本は?
「松本城です!」
……いや、城しかないじゃん!
わりと近世じゃん!
しかし!
最近になって大きなニュースが飛び込んできた。
7月4日、市内並柳にある弘法山古墳が、実は日本最古級なのではないかと報道されたのだ。
www.shinmai.co.jp
弘法山古墳の存在は当たり前のように知っていた。
けれど、諏訪大社が縄文時代から連なっているような歴史を、弘法山から感じることはなかった。美しい花見の名所の印象のほうが強かった。
だが、松本市民の日常に溶け込んでいた弘法山古墳は、実はそんじょそこらの古墳ではなかったのだ。
これまで弘法山古墳は、3世紀末から4世紀初頭に築かれた「東日本最古級」とされてきた。
ところが近年の市の発掘調査で、築造年代がこれまでの想定よりも50年ほど遡ることが判明。3世紀前半から半ばであるとみられ、確認されている中では「日本最古の古墳」のひとつと考えられるようになったという。
たった50年。しかし、これは大きな発見だった。
これがどんな意味を持つのか、調べてみた。
弘法山古墳とは?
弘法山古墳とは、松本市並柳にある弘法山の上に建造された史跡です。市民のお花見スポットとして知られており、春になるとこんもりした弘法山全体が桜色に包まれます。
弘法山という名前ですが、弘法大師との関係ははっきりしていません。全国各地に弘法大師の伝説が残っていますが、この弘法山にはそういった伝説は公式には確認できませんでした。
弘法山古墳基本データ
- 前方後方墳。全長61.7〜66m(調査によって数値に幅あり)
- 松本市並柳、中山丘陵の北端。旧地名は「出川字丸山」。
- 昭和49年(1974年)、松商学園が学校用地造成のため買収し、発掘調査で古墳を発見。
- 最初は円墳と思われていたが、調査が進むに連れ前方後方墳と判明。
- 第二次世界大戦中に高射機関銃座が据えられていたため、長らく「戦争で壊された古墳」程度に軽く見られていた。
弘法山古墳は前方後方墳ですが、弘法山の見た感じはあまりにも丸みがあるため、私は前方後方墳だと実感できていませんでした。しかも、弘法山全体が古墳なのかな?くらいに思っていました。ですが、実際は古墳自体は自然の丘陵の先端に土や石を盛って作られています。
子どもの頃からずーっと眺めて育っていたのに、全然気づいていませんでした。
しかも、数年前に登って石室の上に立ったこともあるというのに。まあ、最初は専門家でも円墳だと思っていたくらいだから仕方ないか(笑)。おまけに戦時中には高射機関銃座まで据えられちゃってるし、中で眠っていた人も何事かと思ったでしょうね。
しかし、2020年、松本市は弘法山古墳の史跡としての価値を高めるために50年ぶりとなる再調査に着手。部分的な発掘調査で形と大きさを計測し、古墳の正確な規模や大きさを測定。また、以前の発掘調査の結果を検証し直すことで古墳の構造、埋葬過程、出土遺物の年代も判明。それにより「全国的にも超有名な、あの箸墓古墳よりも古い3世紀前半〜半ばの築造」だという大発見に至ったのです。
matsumoto-city.note.jp
弘法山古墳が日本最古級であることの意味
つまり、卑弥呼が活躍した邪馬台国の時代と我らが弘法山古墳が築造された時代は重なっているのです。しかも、前方後方墳である弘法山古墳は、大和政権が広めた前方後円墳の文化とは異なる、東日本独自の特色をもつ古墳です。
これは何を意味しているのか。
弘法山古墳は大和政権成立の「前」に「独自」に作られたということになり、従来は大和政権が広めた古墳が松本でも取り入れられて建造された=松本(科野:シナノ)は大和の出先機関的な立ち位置と考えられていたものが、大和政権に先行する「科野の国」の成立を示す根拠と考えられるようになったのです。
長野県には善光寺平で森将軍塚古墳などの前方後円墳が造られていますが、これは4世紀以降のことで、大和政権の権力浸透と考えられていますから、松本には善光寺平型の権力とは別な権力があったということになります。もしかするとこの松本平こそが、古代の「科野の国」の成立の先駆けだったのかもしれません。
また、古墳の築造は、この地に「これだけの人数・資材・技術を動員できる支配者がいた」という物的証拠でもあります。
弘法山古墳は全長60m超、川原石を積んだ礫槨(れきかく)に木棺という造り、副葬品には中国製の鏡や鉄斧、鉄剣、ガラス小玉などがありました。これだけのものをひとりの埋葬のために用意できたということは、松本平にそれを組織できる「王」的な存在がすでに存在していたことになります。
被葬者の身元はわかっていませんが、出土された土器がすべて東海地方様式だったことから、東海地方と関わりのある人物だと推定されています。また、弘法山古墳のほど近くにある出川西遺跡(南松本駅周辺)からもほぼ同時期の東海地方様式の土器が多数出土されていることから、古墳に眠る人の領地はそのあたりだったのかもしれないと考えられているようです。
では、弘法山古墳に埋葬された人は東海地方からやって来た王様だったのでしょうか?
南松本駅周辺の発掘調査では、東海様式の土器と松本地方の様式の土器が一緒に出土したところもあり、決して一方的な支配関係ではなかったと考える人もいます。私も東海地方の人が一方的に支配していた松本平だとはあまり考えたくはありません。それに、松本平にそれほど東海地方の言葉や風習で似たものがあると感じたこともないんですよね。あくまで個人的な感想ですが……。あるいは、最近判明してきた縄文人、弥生人以外の第三のDNAを持つ古墳人がここにいたのか……。

2016年に入手した「松本市立考古博物館展示解説」 弘法山古墳のページ
おわりに
松本城ができるずっとずっと前。
まだ「松本」という名前すらなかった頃。
この土地には、すでに大きな墓を造るほどの力を持った人々がいた。
私が「松本の歴史」だと思っていたものよりずっと前から、ここには人がいて、暮らしがあって、社会があった。
松本には当たり前だけど、城より前の歴史がある。
信濃国と呼ばれる前の科野の国よりも遥か古い歴史が。
弘法山古墳が日本最古級の古墳と判明したことで、あらためて松本の歴史に思いを馳せるのでした。
ちなみに、弘法山古墳の副葬品は弘法山古墳のほど近くにある松本市立考古博物館で見ることができます。ほかにも縄文時代、弥生時代の遺跡から発掘された品々もあり、松本市の歴史を身近に感じられるいい博物館なのでおすすめです!

松本市立考古博物館 再現された竪穴式住居
本日も最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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