皆さまごきげんよう。
信州松本ぺんぎん堂安曇野支店ぺんぎん兎丸です。
いかがお過ごしでしょうか?
今日は随分暖かいですね。
兎丸地方も20℃あります。
このまま、春になるといいですね。
ただ、来週は少し冷え込むこともあるそうなので
お身体に気を付けてくださいね。
さて、今年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」
ご覧になっている方もいらっしゃることでしょう。
残念ながら、我が家は見てないのですけども (;^_^A
もう、木曽義仲は討たれちゃったのかしら。
県歌「信濃の国」にも謳われる「朝日将軍」ですね。
諸説ありますが、実は『源平盛衰記』によると
と記されており、現在の木曽は当時美濃の国であったことから、
義仲が匿われていたのは、今の東筑摩郡朝日村(朝日村木曽部桂入周辺)
という説もある。(wikiさんより)
まあいずれにせよ、信濃の山の中の、京都の雅な世界を知らない
申し訳ないですけど「山賊集団」ですよね。
その義仲が、2年間逗留したのが上田市丸子にある井田城でした。
(その昔は、小県郡井田城と呼ばれていました)
2年間かけて着々と挙兵の準備をしていたのですね。
続く篠原の戦いにも勝利して勝ちに乗った義仲軍は
沿道の武士たちを糾合し、破竹の勢いで京都を目指して進軍する。
寿永元年(1182年)、北陸に逃れてきた以仁王の遺児・北陸宮を擁護し、
以仁王挙兵を継承する立場を明示。
しかし、武士などの「皇族・貴族にあらざる人」が皇位継承問題に
介入してくること自体が、皇族・貴族にとって不快でした。
しかも、任された筈の京都の治安も悪くなる一方。
都の雅さを知らぬ田舎侍の乱暴狼藉も収まらず。
天下を狙う皇族たちと武士の、ありとあらゆる謀略に翻弄され
自らが征夷大将軍になろうかという野望も崩れ去る。
そのうえ、法皇幽閉にはじまる一連の行動により既に人望を失っていた。
義仲に付き従う兵は無く、宇治川や瀬田での戦いに惨敗した。
まあ、なんと寂しい末路で御座いましょう。
巴御前は、実際に存在していたかどうかは史実として議論されるところです。
義仲の幼馴染なのではないかとも言われておりますが側室だったかもしれません。
男にも引けを取らぬ大将であった巴御前。
常に義仲に付き従い、功績をあげる姿は誠に頼もしかったはず。
実在していて欲しいですね。
ただ、「源平盛衰記」には
義仲に「我去年の春信濃国を出しとき妻子を捨て置き、また再び見ずして、永き別れの道に入ん事こそ悲しけれ。されば無らん跡までも、このことを知らせて後の世を弔はばやと思へば、最後の伴よりもしかるべきと存ずるなり。疾く疾く忍び落ちて信濃へ下り、この有様を人々に語れ」
との記述がありますが、巴御前に語られた言葉とされていますけれども、
ただ、「吾妻鏡」には、越後の城氏の一族である板額御前の健闘により討伐軍に大被害が生じたとの記述があるんですよね。
当時の甲信越地方の武士の家庭では女性も第一線級として
通用する戦闘訓練を受けている例は存在するそうです。
鎌倉時代にあっては、女性も男性と平等に財産分与がなされていたことからも、
合戦に参加することは女性であれ認められていたらしいです。
ただ、私、臆病者なので、合戦には参加したくないなあ。
義仲挙兵の地上田市丸子には、多くの史跡がありそうなので
興味のある方は、一度お尋ねになったら如何でしょうか。
軍記物語『平家物語』の『覚一本』で「木曾最期」の章段だけに登場し、
木曾四天王とともに源義仲の平氏討伐に従軍し、源平合戦(治承・寿永の乱)で
戦う大力と強弓の女武者として描かれています。
「木曾殿は信濃より、巴・山吹とて、二人の
(山吹は病にて途中離脱している)
宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。
義仲は
「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、
最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」
と巴を落ち延びさせようとする。
巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので
「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。
なんとカッコいい!
巴御前は91歳まで生きたようですが、義仲が討ち死にしたのは31歳。
義仲は余りにも短い生涯で御座いました。
平家物語や源平合戦のあたりから太平記まで結構どろどろの権力争いをしているんですよね。
ちゃんと歴史の勉強をしておけば良かったなあ。
兎丸拝