信州松本ぺんぎん堂

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胸躍る古代諏訪の謎

こんばんは、茶々丸です。

みなさん読書は好きですか?

私は本は読む方だと思いますが、嫌いではないけれど趣味とはいえないと思っています。なぜなら人間は本は読むのが当たり前だと考えてきたからです。というのも、高校時代も大学時代も周りにいる仲のよい人たちはみんな読書量が半端なかったからです。そして私はみんなのそういうところをとても尊敬していて、読書量の多い彼ら彼女らは会話していてもとても面白かったのです。知識といい語彙力といい感受性といい創造性といい、やはり読書ってすごいんだなと実感しながら学生時代を送ってきました。だから自分も自然と外出するときには絶対に本を2〜3冊持ち歩き、気分によって読む本を変えて同時進行で2〜3冊読むようにしていました。いまはKindleがあるのでiPhoneさえあれば何十冊でも何百冊でも携帯できる便利な時代になってよかったです。そんな感じで読書が好きとか趣味という風に感じるよりも前に本が生活のなかに入ってきました。

1ヶ所にじっとしていることが苦手な私は部屋で静かにページをめくることがなかなかできず、読書は専ら電車やバスに乗っている時間にすることが多かったです。しかし、コロナ騒動が起きてあまり電車に乗ることがなくなり、読書がおろそかになっています。反省。

 

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しかし、そんな私でも5月くらいには家の中で胸を躍らせながら読んでいた本があります。それが日本原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究 (人間社文庫 日本の古層②)です
私は信州生まれですが諏訪っ子、茅野っ子ではないため諏訪大社の詳しいことはあまり知らないし、御柱祭にも行ったことがありません。要するにそれほど関心がありませんでした。
しかしある日、神長官守矢氏の存在を知って以来、突然諏訪という土地の神秘性に興味を持ってしまったのです。
神長官の守矢氏とは出雲から追われて諏訪にやって来た建御名方神諏訪明神)と対抗した国津神洩矢神の後裔であり、現在の当主は78代目という恐ろしく由緒正しいお家柄です。

昨日のブログでも縄文時代の信州が実はすごかったという本をご紹介したように、私は縄文人縄文文化、そして古代の信州に暮らしていた人や暮らしにとても興味があるため、守矢氏の存在は見過ごせませんでした。

www.city.chino.lg.jp

 

ここからは古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究を読んでのお話になります。
守矢氏は建御名方神に破れたのち諏訪の統治権を建御名方に譲りその元で祭祀を司ることになりました。神長官守矢氏の誕生です。その守矢氏が守り続けてきたのが本のタイトルにもあるミシャグジ神です。
ミシャグジ神は縄文の昔から信仰されてきたと考えられています。神長官は厳しく御祓潔斎した幼い男の子に神を降ろすことができます。政治的には建御名方がトップに立ち、信仰の上でも諏訪大社の大祝(おおほうり)として君臨したわけですが、神降ろしができるのは神長官で、実質的に政権を担っていたのは神長官かも知れません。そして諏訪と出雲はゆるやかに混ざっていき、やがてそこに大和朝廷の影響も入り、明治になると神社合祀令が出されてしまい、元々の諏訪の信仰はよくわからないことになってしまったらしいのです。

ja.wikipedia.org

 

さて、この本は1975年に出版された「古代原初考 古代諏訪とミシャグジ祭政体の研究」の復刻版のようです。最初、新宿の紀ノ國屋で見つけたのですが、小難しそうで読み切れるかなと思って買うのをためらい、それでもこの本の存在を忘れることができなくてAmazonでポチってしまいました。そして、買ったのは大正解でした!私には考古学の素養もないし諏訪の基礎知識もないのできちんと理解できているかはわかりませんが、とにかくこの諏訪の歴史を解き明かしていけば日本の古代の姿が浮かび上がってくるような気がします。考古学者の藤森栄一さんが「日本古代史の謎の多くは、信州の『諏訪』を解くことによって解けるであろうと暗示していたのである」と序説にも書かれていたがまさにその通りだと本を読み進めていくほどに実感しました。
この序説の中にミシャグジとはなにかということが藤森さんの言葉で紹介されています。

人々は縄文時代からミシャグチという神を信じていた。地母神だり、土地の神であり、水と天候の神であり、あらゆる生命と死を司る神であった。
 その神は、古く岩石に降座し、巨木に天降った。神は、それぞれの村、古くはそれぞれの家にも精霊として存在していた。

 

この本で私が最も興味を惹かれたのはかつて上社前宮で行われていた「御頭祭」です。

神に選ばれ、神となった幼い男の子が祭の最中に殺され、そのことによって狩猟、農耕の豊穣が祈られたというのです。男の子は御祓潔斎のために100日の行をさせられた上、藤蔓で後ろ手に縛られて馬に乗せられる。そしてこの童子を乗せた馬は辺りが暗くなり灯籠やかがり火、松明が焚かれるなか、左回りに道を走らされます。この童子は「おこうさま」と呼ばれたそうです。この様子が書かれたページを読むと、当時の様子がなぜか脳裏に浮かんできました。神道は血や死などの穢れを嫌うと聞いたことがありますが、かつて行われていたこの祭りはどうも普通の神道と様子が違います。弑殺されたおこうさまは地に埋められたようです。古事記の中にも須佐之男命に殺められた大気都比売神オオゲツヒメ)の体から蚕と五穀が生まれてくる話がありますが(大気都比売神の頭から蚕が、目から稲が、耳から粟が、鼻から小豆が、陰部から麦が、尻から大豆が生えてきた)、神様の体から大切な作物が生まれてくるという考え方が大昔の日本人にはあったのかもしれません。
ちなみに、御頭祭のときには童子が殺されるだけでなく、十間廊というところに75頭の鹿の頭も捧げられていたといいます。なんと血なまぐさいお祭りなんでしょう。そんなところに少し、縄文のにおいを感じないわけでもありませんが、もしかしたら建御雷神に出雲を追われた建御名方の腹いせだったりして。鹿は建御雷神の神使だもんね。

諏訪のこと、諏訪大社のことをもう少し知ってから読んだ方が理解度が深まったのではないかと思いますがが、何も知らずに読んでもそれなりに楽しむことができ、また古代史をもっと勉強したいという気持ちにさせられました。

 

昨日のブログにも縄文時代に栄えた八ヶ岳周辺から自分の故郷の松本は離れているのであまり詳しいことがわからず、松本の縄文人たちがどんな生活をしていたのか気になるといったことを書きましたが、諏訪・茅野地域がこれだけの歴史を刻んでいた間に松本ではどんなことが起こっていたのか、やはり気になります。ただし、松本にも千鹿頭山(ちかとうやま)という山があるのです。この千鹿頭というのが実は洩矢神の孫にあたるのです。千鹿頭山は確か小学校1年生か2年生の遠足の行き先でしたが、そんな神様が祀られた神社(千鹿頭神社)のある山だったとは、ま〜ったく知りませんでした。孫の千鹿頭さんは松本で何をしていたのでしょう?やはり気になります。こういう視点で郷土の歴史を教えたら面白いんじゃないかな〜。

 

とにかく現場を見てみたいという気持ちが強いので、コロナ騒ぎが収束したら茅野市にある神長官守矢資料館に行ってみたいと思います!