信州松本ぺんぎん堂

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拾ケ堰を知っていますか?

皆さまごきげんよう

信州松本ぺんぎん堂安曇野支店ぺんぎん兎丸です。

 

今日は、安曇野を流れる貴重な灌漑用水「拾ケ堰(じっかせぎ)」のお話です。

拾ケ堰とは江戸時代の信濃国安曇郡成相組成相町村・成相新田町村、長尾組上堀金村・下堀金村、保高組吉野村・柏原村・矢原村・保高村・保高町村・等々力町村の10ヶ村を灌漑する組合堰でした。後に、長尾組中堀新田村も加入し、11ヶ村となっています。

「世界かんがい施設遺産」にも選定されました。

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拾ケ堰


ここは常念岳もよく見える絶景の撮影スポットです。

兎丸地方では「堰」"せき" と書いて "せぎ" と読みます。

田んぼの横に流れている灌漑用水路も"せぎ"です。

今は、安曇野自転車道路が拾ケ堰堤防に整備されていて、走ると気持ちがよさそうです。桜の季節は特に綺麗です。

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常念岳

特に常念岳を見ながら西に向かうコースは、最高のロケーションです。

 

松本地方は、地下水が比較的豊富なのか、地下水の水位が高いのか、小学校の砂場を掘ると水があふれてきたりしましたが、安曇野では、北アルプス扇状地が広がり、砂礫岩のせいか、水が吸収されてしまい、長い間苦労してきたようです。

北アルプスの秀峰・常念岳にその源を発する烏川は、深い谷間の水を幾筋か集めて安曇野に流れ出るが、平野部に出たとたん、その流れは忽然と姿を消す。

また、その南、黒沢山から流れ出る黒沢川も、途中、落差30メートルの滝で水飛沫をあげながら、平野にたどり着くや川はやせ細り、田畑の真ん中でついに姿を消してしまう。

扇状地でたまに見られる、いわゆる尻無川である。

上流ではあれほど水量豊かな梓川も、安曇野へ出るとともに流れはまばらになり、小石だらけの広い川原を水が流れるのは大雨の後くらいだったという。

縄文時代の遺跡は50ほど散在(上流部に集中)するが、弥生のそれは半減する。また、大きな古墳も造られていない。

理由は明らかであろう。北アルプスという巨大な水の宝庫を持ちながら、水田を造ろうにも地表に水がない。

おまけに、北アルプスの水は稲が育つには、やや冷たすぎた(水温11度前後)。

畑作も、地下水位が低く(20メートル以上)、天水に頼るしかない。しかも、この盆地は年間雨量1050ミリ前後(日本の平均雨量は約1800ミリ)。夏の雨量は極端に少ない。

松本平、伊那平、佐久平善光寺平。海を持たぬこの山国のわずかな平地は、俗に信州四平と呼ばれている。

安曇野は、その松本平の大半を占めるなだらかな地形でありながら、水のなさゆえに、過去長い間、不毛の大地だったのである。

消える川[複合扇状地の怪] ―安曇野水土記

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普通、用水路というのは、スキー場のコースのように等高線に対して縦に作る。

等高線が低くなるのに従って、川の水が流れていく仕組みなのです。

ところが、拾ケ堰に代表されるような、安曇野の堰は、等高線に沿って横に流れていくのです。

時代は江戸時代。

どれほどの労力が必要だったのでしょうか。

 

現在の穂高町一帯には広大な原野が残されていた。

これらの横堰の総集編ともいえる拾ケ堰が誕生するのは文化13年(1816)。

同じく奈良井川から水を取り、この大複合扇状地の中央を約570メートルの等高線に沿って横切り、約1000ヘクタールの水田を潤すという安曇野一の大水路である。

長さ約15キロメートル、勾配は約3000の1。

3キロメートル進んで1メートル下がるという勾配は、例えば槍ケ岳(標高3180メートル)の頂上が横に1メートルずれる程度の、ほとんど誤差に近い領域での処理である。いうまでもなく、近代的水準器や望遠鏡もない時代、鍬やモッコだけによる手掘りの水路である。
しかも、この工事は着手から、わずか3ヵ月という驚異的な早さで完成されている。安曇野の冬は厳しい。春の訪れとともに工事を開始し、梅雨に入るまでに完成させねばならなかったのである。賦役者の人数は述べ6万7000人。

10に及ぶ村を潤すというので拾ケ堰と名づけられたという。

拾ヶ堰の偉業 ―安曇野水土記

 

柏原村の庄屋・等々力孫一郎は26年間にわたって土地を詳細に調べ上げ、反対派の暴漢に襲われながらも、松本藩への交渉を成立させました。

この難事業の設計にあたったのが同村庄屋の中島輪兵衛。彼は、工事の詳しい記録を残しています。その二人と、勘左衛門堰の大改修を成功させた堀金村の技術者・平倉六郎右衛門。さらに、この世紀のプロジェクトを理解し推進役となった松本藩土木掛の青木新兵衛らが中心となり、構想26年の拾ケ堰工事が始まります。

構想26年だったのですが、工期は3か月だったのです。

梅雨が来る前に作り上げようという皆の情熱が、前段未聞の大偉業を完成に導きました。

因みに、1816年(文化13年) - 2月11日工事着手。5月11日に竣工。7月3日に完全に通水をしています。

同じ標高を通すために用いられた水準器は木製の簡易なものだったと言われています。

しかも、奈良井川から水を得て、梓川の下をくぐって安曇野に出る。

北アルプスの水は、地面に吸収されてしまうために、敢えて奈良井川から取水しました。

当時の工事人足は

保高組:1万6689人
長尾組:2万788人
成相組:1万5675人
上野組:4602人
松川組:3801人
池田組:5597人

だったと言います。

当時の人々の灌漑に対する熱い思いが伝わってくるようです。

灌漑面積は約1000ha。

今では県内でも有数の米どころとなりました。

 

国道19号線を走っていると、なんだかおもしろい構造物があるのですが、あれが拾ケ堰の取水口だとは思いもよりませんでした。

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奈良井川取水口

 

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梓川サイフォン入り口

 

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アルプス大橋

梓川の下をくぐる川の流れは、ラーラ松本の近くにあるようです。

梓川の下に、まさか川が流れているとは知りませんでした。

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拾ケ堰 灌漑図

安曇野の堰の中でも拾ケ堰は最大規模で、江戸時代後期の文化13年(1816)に開削された。幹線水路の延長は15キロメートル、ほぼ標高570メートルの等高線に沿って安曇野の中央部を貫いて流れ、高低差は5メートルほどである。
開削は、10カ村の農村の指導者によって立案され、工事は延べ6万人以上の農民が参加し、約3カ月の短期間に工事を終えるという、驚異的な事業だった。現在は、約1,000ヘクタールが灌漑(かんがい)され、安曇野の今日を築いた文化遺産である。また、農林水産省の「疎水百選」にも選ばれている。
じてんしゃ広場
拾ケ堰沿いには自転車専用道が整備されている。
【問い合わせ】
安曇野市観光協会(電話0263-82-3133)

www.city.azumino.nagano.jp

 等高線に沿ってゆったりと流れる拾ケ堰。

折々の景色を映しながら、我々に豊かな実りをもたらしてくれる大切な堰でした。

来年の桜の季節には、自転車道路を走ってみようかなと思う兎丸でした。