信州松本ぺんぎん堂

信州にまつわる情報を愛を持って発信しています!

貞享義民記念館ってどんなところ?

こんばんは、ぺんぎん茶々丸です。

本日はNHKブラタモリで「安曇野」を取り上げていました。

本来ならばそれについて書きたいところですが、わたくし、オンエア日だということをすっかり忘れておりまして💧

同じ安曇野で、というわけではありませんが、先日市民タイムスWEB安曇野市にある貞享義民記念館が会館30周年を迎えたという記事を読みました。そこで今回はこの貞享義民記念館と貞享騒動と呼ばれる百姓一揆、そして貞享義民たちを指揮した元庄屋の多田加助について書いていきます。

 

www.shimintimes.co.jp

www.nagano-museum.com

 

 

貞享義民記念館とは

安曇野・松本地域以外の方は貞享義民記念館と聞いてもピンとこないと思います。

貞享義民記念館とは江戸時代の貞享3年(1686)に松本藩で発生した百姓一揆「貞享騒動」の資料を展示するとともに、この一揆を主導した元庄屋の多田加助を顕彰している展示館です。

私もオープン当初に見学に行き、立体映像で「貞享義民物語」という映画を見て暗〜い気持ちになって帰ってきました。

ただ、わたくし、貞享騒動にだけ焦点を当てたこの大変ニッチな記念館が結構好きなんですよ。まだコロナが大騒動になる前の2019年の1月に、およそ30年ぶりにひとりでぶらぶらと行きました。今回はそのときの感想なども書き綴っていきたいと思います。

貞享義民記念館

貞享義民記念館、それはそれは寒い信州でもとびきり寒いところでございました(笑)。

なんといってもこのときのお客さんは私だけ。暖房は全館暖房ではなくロビーの吹き抜けに設置されたストーブのみ!しかしこれは記念館が悪いわけではく、安曇野や松本はどの建物に入っても大抵寒いです。エコが叫ばれる何十年も前から冷暖房を極力使わない県民性です。松本に住んでいるときに我が家もそうだったしご近所も友だちの家も省エネだったし、デパートも公共施設もそれほど冷暖房を効かせません。冬、信州に遊びに行く方は室内でも暖かく過ごせる服装を選ぶのがいいと思います。

そして、これは絶対にお伝えしておいた方がいいと思いますが、トイレ、寒いです。っていうか、座った途端に変な声が出そうなくらい便座が冷たいです。屋外に置いてある石にパンツを脱いだ生のおしりで腰掛けるくらいの覚悟が必要です。心臓の弱い方やご高齢の方は特に気をつけてくださいね。松本駅改札内のトイレも同じですけども。心臓を驚かせないためにも便座に座るときに「さあ、これから冷たい便座に座るぞ!」と体に言い聞かせてから座るとよろしいかと思います。

けれども、記念館内はとてもとても寒かったですが、学芸員さんはとても親切でした。たったひとりの見学者である私のためにミニシアターで貞享義民物語を上映してくださったり、いい頃合いを見計らって声をかけて説明してくださったりと心はとても温まりました。

 

この記念館がなぜ作られたのか、ホームページによりますと

当館は今から300年以上の昔、この地中萱村(現安曇野市郷中萱)の元庄屋、多田加助を中心とし、松本藩領の多数の百姓が参加した大規模な百姓一揆(貞享騒動あるいは加助騒動と呼ばれます)を顕彰して建てられたものです。当館ではこの百姓一揆(騒動)を「生きる権利の獲得のためのたたかい」であったととらえ、人権尊重の社会の建設へ向けた先駆であったと考えています。館内では物語「貞享義民物語」を上映、騒動に関わる資料の展示を行っています。

ということで、この一揆を人権尊重の社会を築くための先駆けとして後世に伝えていこうと設立されようです。

 

アクセス

  • JR大糸線中萱駅から徒歩でおよそ10分
  • 車の場合は長野自動車道安曇野インターから15分
  • 松本インターからでも20分

大糸線はそれほど本数が多くないので車で行くことをオススメします。まっ、私はトコトコ電車で行きましたけどねっ。

 

 

貞享騒動とは

信濃国百姓一揆の発生数が全国でもトップクラスでした。江戸時代のおよそ260年の間に200件以上も起きています。多発した要因として山間地で痩せた土地が多いこと、冷害の多い風土、藩から重税を課されたことなどが考えられると思います。それに加えて昔の信州人は気骨があったらしく、自分たちの権利を主張して立ち上がる人が多かったようです。

それら一揆のうちのひとつが貞享3年に発生した貞享騒動です。

その年、安曇平は例年に比べて不作だったにもかかわらず、松本藩は年貢1俵あたりの容量を3斗から3斗5升に引き上げることを決定しました。松本藩周辺の藩の基準は2斗5升であり、それらの藩に比べると1.4倍以上の重税です。しかも、俵に詰める米はそれまでノギ(お米を包む殻の先端から伸びているヒゲ)もコミだったのに、それも取り除くよう命じました。ただでさえ忙しい脱穀と俵詰めの間にノギを取り除くのも重労働。農民の不満は溜まる一方です。

そこで中萱村の元庄屋・多田加助を中心とした11名は密かに熊野神社に集まって苦境を開くための策を練り、直接郡奉行に1俵あたり2斗5升にしてほしいなど5つの要望を書いた「5か条の訴状」を提出することに決めました。しかし、当時、お奉行様に直訴する行為は「越訴(おっそ)」といわれるご法度です。それでも加助を中心とした百姓たちは10月14日に訴状を持って松本城下の奉行所へ向かうことにしたのです。

5か条の訴状内容(ざっくり)

  1. ノギを取り除くのはやめてほしい 当年は不作がちで年貢籾の半分もないほど百姓が難儀しているのに、当年からノギを取り除いて収納せよとはなんとも迷惑なことです。
  2. 籾1俵2斗5升摺りにしてほしい 先年は1俵につき米2斗5升で納めてきましたが、3斗挽きに改められたので仕方なくそうしてきたけれど、当年は3斗4〜5升挽きで治めよと言われました。1国のうちでも高遠・諏訪領は今でも2斗5升挽きです。うちの領地でもそうしてほしいです。
  3. 大豆で納める金納分の値段は籾値段分にしてほしい 年貢をお金で納める分の金額を大豆値段にすると高すぎる!
  4. 領外への輸送米の百姓負担はやめてほしい 領外(江戸藩邸)へ米を運ぶときにそれを百姓に負担させるのはやめてほしいです。
  5. 藩の雑役に出る人の給金は藩の負担にしてほしい 藩に奉公に行く人に村の補助金は出さないということになっているのに、この頃は人選も難しい上に藩からの支給金が少ないので仕方なく村で半額補助金を出していますがなんとも迷惑なことです。

 

10月14日当日。この越訴の計画は松本藩内の各組に伝わったため、中萱村以外の周辺の村々から1万ともいわれる百姓が松本城周辺に押し寄せる騒ぎとなりました。鍬などをもって大勢で訴える行為もご法度の「強訴」にあたります。

藩主・水野忠直は参勤交代で不在でしたが10月18日、事態を重く見た城代家老は騒動を収拾すべく加助らの要求を飲むと言って百姓たちを引き取らせました。

そして19日夜、組手代らに年貢を減免するととの回答書を手渡しました。

ところが役人らはその裏で江戸の水野忠直に早馬で注進し、忠直の許可を得た上で回答を反故にし、越訴をした関係者の捕縛にとりかかりました。しかも、役人らは藩主に年貢を引き上げたことなどを正直に伝えずにいままでと同じように年貢を納めるよう命じたのに百姓が一揆を起こしたと虚偽報告をしていたのです。本当になんて卑劣なんでしょうね!嘘の報告を信じた水野忠直は加助ら百姓の極刑を許可したのでした(とはいえ忠直もバブリーな藩主で百姓が苦しんでいるというのに豪遊していたそうだから許せたものではありませんが……)。

 

そして11月22日、多田加助とその一族、同志は刑に処されました。

安曇郡中萱村、楡村、大妻村、氷室村)の者は現在の松本市宮渕に臨時に設けた勢高(せいたか)刑場で、筑摩郡(三溝村、堀米村、浅間村、岡田村、梶海渡村、執田光村)の者は出川の刑場で、磔8名(加助と加助の右腕として動いた楡村の元庄屋小穴善兵衛を含む)、獄門20名の極刑に処されたのでした。

処刑された者の中には小穴善兵衛の16歳の娘・しゅんも含まれていましたが、当時の慣習として女子が処刑されるのは異例のことで、しゅんが馬に乗って近隣の村々との連絡係を努めていたことから男子として処刑されたと見られています。また、善兵衛の処刑後に生まれた赤ん坊まで処刑したという話もあり、残された家族にまで非道な処罰が続きました。

以上が貞享騒動のあらましとなります。

 

農民を守ろうとした藩士・鈴木伊織

貞享騒動のあらましだけをみると「水野家が治めていた松本藩ってなんて卑劣なんだろう」という思いだけが残りますが、加助を助けようとした藩士もいました。

その藩士の名は鈴木伊織。彼は民の暮らしが立つような政治を願っており、農民からも慕われていたと伝わっています。

当時、江戸詰めだった伊織は加助らに極刑を処す許可をもらった松本への使者が江戸を発ったあと、忠直を諌めて処刑の中止を嘆願。赦免状を持って自ら馬を駆って松本へ向かいます。

しかし、松本へ入ったところで馬の脚が折れて転倒、伊織も気を失ってしまい処刑に間に合わなかったと伝えられています。

このとき馬が倒れた場所は「駒町」として地名に残っていますし、伊織の墓所のほど近くに伊織の名を冠した「伊織霊水」という井戸が保存されています。

 

松本城を傾けた多田加助の怨念

水野家から寄贈されたという多田加助の木像

貞享騒動を主導した多田加助はもともと庄屋でしたが貞享騒動の2年前、凶作が続いて困窮する農民を代弁して年貢の軽減を組手代に申し出ますが受け入れられず、松本藩に直接陳情したことにより庄屋の身分を剥奪されていました。貞享騒動の前から農民のために動いていた方なんですね。

幼名を三蔵といい、26歳のときに襲名して加助と改め庄屋役を引き継いだそうです。

幼い頃より学問を好み、一説によると陽明学を修め、言行一致を説いていたそうです。加助の家には松本藩前藩主・松平出羽守直政の家臣・丸山文左衛門が賓客として過ごしており、この文左衛門を師として陽明学などの学問や武芸を修めたようです。文武両道に秀で農に励む人格者だったと伝えられています。

私の祖父の生家も加助さんちの近くにあったようなので、もしかしたら私のご先祖様も加助さんのお世話になっていたのかなと想像することもあります。実際はどうだったのか全くわかりませんが。

 

貞享3年、11月22日。松本城を見下ろす場所にわざわざ臨時に設けられた勢高刑場で加助らは磔刑に処されましたが、このときの伝説が残っています。

磔柱に上げられた加助は集まった大勢の人々に

「これでみんなの年貢が下げられるんだから、わしは安心して死んでいく」

と言いましたが、群衆の中から

「残念ながら約束の紙は加助さんが牢屋に入れられた日に取り上げられて、約束は反故にされた」

という声が上がりました。すると加助は

「年貢は2斗5升!2斗5升じゃああああ!」

と怒りに満ちた声で叫ぶと松本城天守を睨みつけました。すると、その途端、恐ろしい地響きとともに天守が西に傾いた、というのです。

この加助の怒りが松本城を傾けた伝説は松本・安曇野の子どもたちは学校で教えられたものですが、実際は天守台の中の支持柱が腐って傾いたのが真相のようで、加助が城を傾けた伝説は明治時代になって作られたのだとか。傾いた天守閣を直す工事は明治30年代に行われています。

 

加助の祟と囁かれた水野家の末路と自由民権運動

貞享騒動から39年後の享保10年(1725)、忠直の孫である水野家六代目藩主・水野忠恒が乱心して江戸城松の廊下で長府藩の世子・毛利師就に対して刃傷沙汰を起こし、水野家は改易処分となりました。

貞享騒動からおよそ40年も経っていたにもかかわらずこの事件は「加助の祟だ」と恐れられたそうです。どうせ祟るなら孫じゃなくて本人に祟ってほしいところですが、この孫も忠直同様に大層享楽に耽っていたようなので、当時の人たちはそんな藩主へのやりきれない思いもあって加助の祟りだと考えたのかもしれませんね。

水野家に代わって松本藩に入った戸田松平家の時代になってやっと人目を憚らずに加助たちの菩提が弔われるようになり、享保20年(1735)の騒動50年忌には騒動発祥地において法華経2千部読誦の供養が営まれ、寛保元年(1741)には供養塔が建立されました。地元の人たちは命がけでみんなの暮らしを守ろうとした加助を始めとする義民たちへの感謝を50年経っても忘れていなかったのですね。

 

明治10年代になるとこの貞享騒動が自由民権運動を推し進める原動力となり、加助のことを学んだ自由民権家の松沢求策は「民権鑑加助の面影」という劇を作って地元の松本平で上演。住民が国会開設運動を始める下地を作ったといわれています。

 

貞享義民記念館の展示

貞享義民記念館には「貞享義民物語」を立体画像で上映する義民シアター(ミニシアター)があり、これが記念館の目玉だともいえます。

また、展示物には郡奉行からの返答書や事の顛末が書かれた信府統記第28巻の写しなどの文書のほか、処刑場跡や墓所などゆかりの場所の写真、加助像、加助や善兵衛にまつわる品々、当時の農具などがありますが、圧巻なのは展示物に付いている説明文の多さです。展示物の前に書見台が置いてあり、そこに小冊子と呼んでいいほどの説明文が乗っています。私が見学に行ったときには寒すぎてとても全部読んでいられないし、時間もかかるので学芸員さんに許可を得て興味があるものの説明文全ページを写真に撮らせてもらい、東京へ帰るあずさの中で読ませていただくことにしたくらいです。熱意がビンビン伝わりますが、これが書籍になっていたら絶対に買って帰ったのになあと思いました。選んで写真に収めたのですが、本当は全部をじっくり読みたかったのです。

 

義民シアター

上の写真が義民シアターです。写真から伝わるかわかりませんが、ここはとても雰囲気がいいです。加助たちが越訴について話し合った場所か農民の家をイメージして作られているのかもしれず、雰囲気がいいと言っていいのかわかりませんが。ここで影絵のような立体映像で義民たちの物語を見ることができます。胸に迫るものがありなかなか怖いです。上映時間は17分ほどでした。

近年ではコロナの影響もあり来館者数が激減しているそうですが、義民シアターを使って義民や人権にかかわらないものでも上映会やお話会、朗読会を開いて、まずは人々に足を運んでもらい、そこから義民や人権にも興味を持ってもらうという流れにしてもいいかもしれませんね(もうとっくにやっているかもですが)。そうそう、ストーブの置いてあったロビーもなかなか素敵な雰囲気だったのでそこでの朗読会やおはなし会もよさそうです。

 

加助の脇差

加助様絵姿

展示品からは後の世に加助が神仏のように崇められていたことも伺えます。上の写真の加助様絵姿はもう曼荼羅ですよね。この感じだとお仏壇に納められていても驚きません。

小穴善兵衛ゆかりの裃

加助とともに戦った善兵衛ゆかりの裃。加助さんも善兵衛さんもきっと知的で農民思いな庄屋さんだったんでしょうね。

 

貞享騒動については調べれば調べるほどいろいろ考えなければいけないなと思うことが出てきます。なのでまたいずれ加助さんたちについてこのブログで書くことがあるかもしれません。

また機会があれば私も貞享義民記念館へ行ってみたいと思います。みなさんもぜひ一度、見学に行ってみてくださいね。

 

そうそう、この貞享騒動を舞台にした六冬和生(むとうかずき)さんのSF小説松本城起つ」はかなり面白いです。私は大好きな作品です。松本っ子にも安曇っ子にも、そうでない方にもオススメです。このブログを読んでくださったみなさまには貞享騒動の基礎知識がもう頭に入っているはずなので、きっと何も知らずに読む人の有に10倍は楽しめると思います!

 

松本城起つ内容

信州大学経済学部に通う巾上岳雪(はばうえ・たけゆき)は、家庭教師先の女子高校生・矢諸千曲(やもろ・ちくま)に連れられて初めて松本城を訪れた。受験より趣味の松本史跡の見学を優先し、いつまでも模試の結果すら見せようとしない千曲に巾上が腹を立てていたその時、松本城が大きく揺らいだ――1686年の松本藩で目覚めた巾上は、自分が鈴木伊織(すずき・いおり)という藩士として、千曲が松本城に祀られている二十六夜神(にじゅうろくやしん)さまとして存在していることに愕然とする。奇しくもその年、松本藩では貞享騒動という百姓一揆が発生、多数の死者を出していた。状況に戸惑う巾上は、命懸けで年貢減免に挑もうとしている多田加助(ただ・かすけ)ら農民と出会い、その窮状を知るなかで、彼らを救いたいと感じ始める。巾上と千曲は、松本の人々を救うことができるのか? そして現代へ戻ってくることはできるのか――?

 

ということで今回も最後までお読みいただきありがとうございました!