信州松本ぺんぎん堂

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信濃の国 Forever

どうも、茶々丸です。

まずはこちらの動画からご覧ください。

 

 

こちらは日本の伝統文化とロックが融合した新感覚パフォーマンス集団破天航路が12月12日に公開したオール信州ロケの信濃の国です。

格好よくないですか?

hatenkohro.com

 

信濃の国というのは長野県の県歌で、多分秘密のケンミンショーか何かで「長野県民は全員信濃の国が歌える」なんて企画があったのではないかと推測しますが、その通りで恐らく9割の県民が歌える歌です。何しろ小学校で習いそれからずっと学校行事があるごとに歌うといっても過言ではないほどなので。信濃の国を歌えずば県民にあらず!という勢いです(笑)。運動会では絶対に流れるあるいは歌う歌だと思います。

今回はこの信濃の国の基礎知識を書いていきます。長くなりますが最後までお付き合いください。

 

信濃の国の誕生

信濃の国は旧松本藩士族の浅井洌(あさいきよし:”れつ”という説もあり)が作詞し、作曲は東京府出身の北村季晴(きたむらすえはる)が手がけ、明治33年(1900年)に発表されました。

もともとは信濃教育会という教育の向上を図る学校の先生たちの団体の依頼で作られた唱歌です。当時は教育の現場にも日清戦争の影響が及んでおり、これを心配した信濃教育会が戦争とは離れたテーマを教材とするために作成を依頼したそうです。

 

信濃の国の歌詞

読んでいただくとおわかりのようにこれでもか!というほど信州を褒め称えた歌です。

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信濃の国Wikipediaより転載)

歌詞の内容はざっくりいうと以下の通り。

1番:自然の美しさや恵みを称えています。風土の説明ともとれますね。

2番:大自然に守られている郷土。これも風土の説明にとれます。

3番:信州が誇る産業を紹介しています。

4番:名所・旧跡を紹介しています。

5番:郷土が生んだ偉人を紹介しています。

6番:明治発展の原動力になった鉄道紹介と信州人のあるべき生き方。

 

それでは1番ずつ少し細かく見ていきます。

 

1番

信濃の国は十州に 境連ぬる国にして

聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し

松本伊那佐久善光寺 四つの平らは肥沃の地

海こそなけれ物さわに 万ず足らわぬ事ぞなき

 

ここで境を連ねている十州とは①越後(新潟県)②上野(群馬県)③武蔵(埼玉県)④甲斐(山梨県)⑤駿河静岡県東部)⑥遠江静岡県西部)⑦三河(愛知県)⑧美濃(岐阜県南部)⑨飛騨(岐阜県北部)⑩越中(富山)を指しています。

現在でも長野県は8つの県と接しており、日本で一番お隣さんが多い県です。

 

ここでは松本、伊那、佐久、善光寺の4つの盆地だけがあげられていますが、信州にはほかにも飯山、上田、諏訪、白馬、筑北などの盆地があります。木曽谷、伊那谷もあります。なにしろ山国ですから。一説によると長野県は盆地の数が日本一だそうです。浅井さんは代表的な盆地のみをあげたのでしょう。

余談ですが信州では盆地ごとに文化や人々の気質が違います。そりゃ、ぐるりを高山に囲まれていたらそうなります。以前私がブログに松本に住んでいたときにはおやきを食べたことがなかったと書きましたが、それは食文化の違いのせいです。松本盆地はおやきの文化圏ではないのです。言葉でいえば標準語の「頑張ろうね」を松本では「頑張るじゃん」とか「頑張りやね」「頑張りや」言いますが、飯田から来た知人は「頑張るまい!」と言っていて「それって否定形では!?」と驚いたことがあります。また、松本盆地と安曇盆地は山を隔てずに隣り合っていますが、松本と安曇野でも言葉が違います。ある年の正月に家族で「安曇野方言かるた」で遊ぼうとしたのですが、家族の誰も安曇野の方言を正しく読むことができずイントネーションもわからず、そして意味もわからず結局遊べなかったという経験もあります。

そして本題に戻ると、4つの盆地、松本伊那佐久善光寺はとても肥沃な土地で海はないけれどものはいっぱいあるから困らないよ、県内で全部まかなえるよ、といっています。

 

2番

四方に聳ゆる山々は 御嶽乗鞍駒ヶ岳

浅間は殊に活火山 いずれも国の鎮めなり

流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川

南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり

 

ここでは御嶽、乗鞍、駒ヶ岳、浅間の4座をあげています。

この山々はいずれも雪形が浮かぶ山で、麓に住む農民たちが農業開始の目安にしていたようです。浅井さんが信濃の国を作詞した当時はまだ近代アルピニズムは浸透していなかったのでアルピニストが目指すような上高地穂高などよりも庶民の生活に根ざした山を選択したのかもしれません。そしてこれらの山が信濃の大地を鎮護しているのです。

川の選択は現代でも頷けます。犀川千曲川木曽川天竜川は長野県を潤す大きな川です。

これらの川もまた国の護りです。

ちなみに私は天竜川の源が諏訪湖だということをつい最近知りました。

 

3番

木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し

民のかせぎも豊かにて 五穀の実らぬ里やある

しかのみならず桑とりて 蚕飼いの業の打ちひらけ

細きよすがも軽からぬ 国の命を繫ぐなり

 

3番では19世紀末の信州の生業を紹介しています。木曽の谷は真木茂りの真木は高野槙ではなく、本当の木を意味する檜(ひのき)のことだそうです。明治22年に御料林に指定された木曽の檜の林は皇室財産であったほか、基礎の地場産業漆器や木工品の材料でした。

 

諏訪湖はかつて日本第一の富栄養湖ということで漁獲量が高かったそうです。現在は冬のワカサギ釣りのイメージしかないのですが……。

 

五穀の実らぬ里やあるは……誇張しているかもしれません。寒冷地だし山国なので……。けれど信濃国のなかでは五穀の実らない里などないのです。

 

そればかりじゃなくて蚕の餌となる桑を育てて養蚕をしています。「蚕飼いの業の打ち開け」は養蚕技術の発展を述べていますがこれは本当にその通りで、養蚕で活気があった長野県の人口は昭和恐慌まで全国平均を上回る増加を見ていたようです。

 

4番

尋ねまほしき園原や 旅のやどりの寝覚めの床

木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋

くる人多き筑摩の湯 月の名に立つ姥捨て山

しるき名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝えたる

 

実は4番だけ転調です。字余りのせいだという説もありますが、優雅な景観を歌うのに相応しいゆったりした曲だとも言われています。全体的に勇ましい曲調の信濃の国ですが、4番だけはスローテンポでしっとりしています。4番は歌えないという県民も少なくありませんが私は歌えます(えっへん)。

 

ここでは訪ねてほしい6ヶ所の名所旧跡が出てきますが、いずれも日本の古典に出てくる土地だそうです。浅井洌さんが長野師範学校で国文学と漢文を教えていた先生だったからかもしれません。

 

園原は下伊那郡阿智にあり、古代より中世にかけて和歌に詠まれた歌枕の地です。現在では花桃の里、日本一星空の里などとして知られています。本当にのどかで風光明媚な場所です。

 

寝覚めの床は木曽にある名称で浦島太郎伝説の舞台でもあります。

 

木曽の桟は中山道の難所に架けた桟です。木曽が2ヶ所もありますね。

木曽はいいところですもんね。

 

そして、私は信濃の国の4番をを歌うたびに悲しくなってしまうのですが、その原因が久米路橋です。久米路橋は犀川中流域に架かる橋で信州新町にありますが、子どもの頃「この橋の人柱になったのが久米路さん」だと聞いたからなのです。いや、本当に久米路さんという名前だったのかは知りませんが、民話の「雉も鳴かずば打たれまい」の舞台なのです。下に貼ったリンクでキジも鳴かずばの話を知ったあなたも今日から久米路橋という名前を聞くと悲しくなります。けれどもここは緑に囲まれた景勝地なのでここを訪れた際には民話のことは忘れて楽しんでください。春は桜、秋は紅葉が満喫できます。

onboumaru.com

 

筑摩の湯は古代の束間温湯(つかまのゆ)であり、現在の美ヶ原温泉あるいは浅間温泉だと言われています。日本書紀には天武天皇が束間の湯に離宮を作らせたという記述があります。

 

姨捨山は山の斜面に段々になった田んぼのそれぞれに月が映る田毎の月(たごとのつき)で知られる月の名所です。

 

このような信州の美しい場所は昔から小林一茶松尾芭蕉などなどの歌人が詩歌に詠んで伝えてきたのだぞということです。

 

5番

旭将軍義仲も 仁科の五郎信盛も

春台太宰先生も 象山佐久間先生も

皆此国の人にして 文武の誉たぐいなく

山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず

 

 5番では信濃の偉人をあげています。

武蔵国で生まれた木曽義仲は木曽で育ちました。源平盛衰記の中には当時2歳の義仲は信濃国へ逃れて木曽で育ち木曽次郎と名乗ったと書いてありますが、鎌倉時代の木曽は美濃だったのでは?という意見もあります。しかし、同じく源平盛衰記に「信濃の國安曇郡に木曽という山里あり。義仲ここに居住す」という記述もあることから義仲が匿われていたのはいまの東筑摩郡朝日村ではないかという説もあり、それならば木曽義仲信濃の国で歌われていてもおかしくありません。

 

仁科五郎信盛(盛信の誤りとされるが作詞された明治時代には信盛と盛信の両方が使われていた。長く歌い継がれてきた原作詞を尊重するため長野県では当時のまま歌い継いでいる)は武田信玄の五男で、織田信長甲州征伐に際して一族や重臣の寝返りが続く中、高遠城伊那市高遠町)において最後まで抵抗し、討ち死にした武将です。

 

太宰春台は江戸時代中期の儒学者経世家で飯田の出身です。

 

佐久間象山はいわずとしれた佐久間象山ですが、信濃の国では「しょうざん」ではなく「ぞうざん」と歌われています。なので長野県民は「さくまぞうざん」という名前だと思っている人が多いはず。なぜ「ぞうざん」と呼ばれているかについては出身の松代藩でと〜っても嫌われていたので正しい読み方が伝わらなかったなんて話を聞いたことがあります。しかし地元には「家の近くの丘陵が象に似ていたから」という本人の発言があったという話が残されています。こちらの説の方が心の平和が保たれます。地元では「ぞうざん」一般的には「しょうざん」と呼ばれているということでしょう。

 

これらの素晴らしい人はみんな信濃の人。この偉大な先人の功績は山のように高く人々に仰がれその名は永遠に語り継がれていく、と顕彰しているのでしょうね。

 

6番

吾妻はやとし日本武 嘆き給いし碓氷山

穿つ道二十六 夢にもこゆる汽車の道

みち一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき

古来山河の秀でたる 国は偉人のある習い

 

碓氷峠日本武尊の時代から信濃への入口となる峠で交通の難所でした。

日本武尊は東征の折、この峠で亡き弟橘姫を偲んで「あずまはや(ああ我が妻よ)」と嘆いたそうです。

 

そんな難所の碓氷峠にも26ものトンネルを掘って東京と信州を結ぶ当時唯一の鉄道であった信越本線を開通させたことが歌われています。夢を見ている間に汽車は峠を越えちゃうよ、ということだと思われます。信越本線信濃国が発表される6年前の明治26年に開通しました。

 

そして、そんな鉄道のように真っ直ぐに勉強すれば、昔の人にも決して劣らない人物になれます。古来から山河の美しい国からは偉人が輩出されるという例えがあるよ、と信州人の生き方を指し示し、そうやって実直に進んで偉い人になろうねとエールを送ることで信濃の国は閉められています。

 

信濃の国の役割

県歌をみんなが知っていてみんなで大きな声で歌うといえばみなさんは「ああ、長野県民は仲がいいんだな」と思うかもしれませんが、そこは少し違うのです。

明治9年に信濃国が長野県になってから、東信北信VS中信南信の対立が激化したのです。

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長野県のホームページより旧地域区分

というのも、明治4年に行われた廃藩置県では信濃東北部は長野県、中信南信は筑摩県だったのが合併することになったからです。合併前の旧長野県と筑摩県の間には県政の方針や内容に違いがあったり、面積の広い長野県で県庁所在地が北にありすぎるため中信南信からは不満が出て対立が起きてしまったのです。まあ、その前に最初に県庁が置かれたのは松本だったのに松本の県庁が放火されたせいで長野に県庁が移ったなんて話もあり、しかも犯人は長野の人だったなんていわれていて、それが一番の火種だったように思います。この話は子どもの頃に周りにいた大人から聞いたので、当時の大人はまだ長野に県庁が移ったことに恨みを持っていたのかもしれません(笑)。(※実際は松本にあった筑摩県庁が焼失し、そのせいで当時筑摩県を構成していた南部の飛騨が岐阜県編入になり、残った松本などが長野県に統合されることになってしまった)

そんなバラバラな地域性に連帯感を持たせたのが信濃の国だったのです。

昔から歌はみんなを団結させるといいます。フランス革命ものちに国歌となったラ・マルセイエーズ義勇兵が歌い団結し、それが庶民の間にも広がり、革命を成功させました。歌は人に勇気をくれます。ラ・マルセイエーズはとても血なまぐさい歌詞ですけどね。

信州人の郷土愛が強いのは信濃の国を歌い継いできた結果なのだと思います。子どものときからこれほどまでに長野県を称える歌詞を歌い続ければ自然と郷土に誇りを持つようになるのも当然です。

 

最後に

こうして明治時代から連綿と歌い継がれてきた信濃の国ですが、現在ではダンスバージョン、J-POPバージョンなどさまざまなアレンジが誕生し、運動会で踊られているようです。

冒頭に貼った破天航路さんの信濃の国はそういったアレンジの加わったものです。

なので最後に昔から歌われてきた正統バージョンの信濃の国も貼っておきますのでよかったら聴いてみてください。

 

しかし、想像以上に長くなってしまい、疲れた〜〜〜。信濃の国を甘く見ていました(笑)。

長文を読んでくださったみなさまもお疲れになったと思います。最後までお読みいただき本当に本当にありがとうございました。当ブログへのまたのお越しをお待ちしています。