皆さまごきげんよう。
信州松本ぺんぎん堂安曇野支店ぺんぎん兎丸です。
日ごとに桜前線が北上していますね。
北陸・東北でも開花情報がちらほら。
我が長野県も上田から桜の開花情報が届いたようです。
春の便りにうかうかとお出かけしたくなってしまいますけど。
新型コロナウイルスは怖いし、悩ましいところです。
長野県内も、長野圏域が感染警戒レベル4、上田圏域が感染警戒レベル3になっていますね。
ワクチン接種が進んでいるイスラエルも英国も、感染者が減少しているようですから、日本でも早くワクチン接種が進めばいいなと思います。
さてさて、そうは言いながらも、ちょっと県内お散歩紀行をお伝えしてしまうというね。
三密を回避し、マスク必須・消毒用のアルコールと除菌ティッシュの三種の神器でもって、県内探訪をさささっと続ける兎丸なのでした。
今日お届けするのは、長野県佐久市田口にある日本の城跡「龍岡城」で御座います。
五稜郭と言えば。土方歳三で有名な北海道函館市にある国の特別史跡が有名ですが、実は我が信州にもあったんですよね。五稜郭。
ね、見事な星型でしょう?
規模的には函館にある五稜郭の半分ほどの面積です。
文久3年(1863年)三河国奥殿藩の最後の藩主・
今は「龍岡城」と呼ばれていますが、乗謨の地位的に城主としては認められなかった為に(大給松平氏は代々”陣屋格”)扱いは”陣屋”と言うことになったようです。
幕末の動乱の中で、西洋の軍学に関心を寄せ、砲撃戦に対処するための築城法を学んでいた乗謨は、新たな陣屋として
この大給松平氏が五稜郭内に建てたのは、一般政務と藩主の住居を兼ねた御殿、陣屋内住居を義務付けられている藩士の小屋・番屋・太鼓楼・火薬庫・神社などです。
今現在は、御殿の一部だった”御台所”が、移築されて残っています。
先にも述べましたように、時は幕末動乱期。
老中格・陸軍総裁などの要職にあった大給松平氏は多忙を極めたため、この五稜郭は完成を待つことなく、明治維新を迎えることになります。
この星型の五稜郭周囲に張り巡らせるはずだった石垣も堀も、途中までしか出来ていません。
明治四年に、廃藩と共に新政府の兵部省は、全国の城郭取り壊しを布告します。
この五稜郭も、地所・石垣はそのままとして、建物は入札払い下げとなり、学校としての使用申請をされていた、御台所だけがかろうじて残ったようです。
学校として残された御台所があったからこそ、五稜郭内に田口小学校が存在しているのですね。
田口小学校は、現代的な学校の建物として、五稜郭の一角にあります。
石垣に囲まれた土地は学校のグラウンドとして、使用されているようですね。
歴史的な建造物の中にある小学校って、なんかロマンティック~💞。
ただ、佐久市臼田地域の4小学校が統合・合併されるようですから、今後の龍岡城がどのようになっていくのか、遠く安曇野から見守っていきたいと思います。